年末(というか12月の最初?)に書こうと思って放置していました。感想を書こうかと思ってましたが、見事に内容を忘れかけています。とりあえず読んだ痕跡を残すために、メモのつもりでアップします。
広田先生の本は何冊か読みましたが、この本も興味深く読ませていただきました。
本書は当時(出版は2005年)改正が企てられていた教育基本法について、とくに「愛国心」記述?(我が国の郷土となんちゃらを愛し・・・とかいうやつ)について論じています。
筆者は基本的には教基法改正に反対の立場をとっていますが、非常に冷静に現状をみつめ、改正された場合の影響・懸念をわかりやすく記述しています。
筆者は「徳目」を教基法に新たに盛り込んだところで、「徳目」をみにつけた青少年を育成できるわけでもないし、また、愛国心を刷り込まされたナショナリストが多く生産されるわけではない、といいます。教基法は良くも悪くも「理念法」としての性格が強く、教基法に新たな記述が加えられたくらいで(またそれに教育現場が多少触発されたとしても)大きな変化が起こるわけではないからです。
懸念すべきこととして筆者が上げているのは、「理念−制度−実践」が緊密につなげられていくという事態が起こることです。つまり教基法の改正がカリキュラムに反映され、教育現場の「質」をチェックする論拠として使われることを危惧します。「理念法としてではなく実定法的に教育基本法が運用される場合には、現在、第十条で歯止めがかかっている教育内容の統制というタガがはずれて、とめどなく行政のコントロールが教育現場を縛ることになりかねない」(p. 95)と筆者は述べています。
実際に教基法が改正された2006年当時は「「個」から「公」への
転換」とテレビなんかではよく言われてました。僕の知り合いも国会前に座り込みに行ってました。感覚論で申し訳ないのですが、この当時の論調は「この改正で個から公へと教育が舵を切った」というものに(個人的には)きこえました。しかし、この改正議論の前後には教育の新自由主義的な改革が提案・実施されていました。簡単に言ってしまいば「個」の重視でしょうか。とするとこの教基法の改正は「公」への舵切り、ではなくて一連の新自由主義的改革を補完するための新保守主義的な法改正だったというべきではないでしょうか。本書の中でもそのような指摘がなされています(例えば第一章)。
そんなこんなでいろいろ考える機会になったわけですが、印象に残っているのは本書の中で引用されていた中村清さんのことば(大内裕和さんの本の書評)であります。
新自由主義・国家主義に反対する人々にとっては、教育基本法改正論批判として、本書(大内 2003 mosquito注)の議論で十分なのかもしれない。しかし、肝心の教育基本法改正をもくろむ人々には、この批判は届かないのではないか。彼らは、本書の議論を相変わらず現実を無視した理想主義に過ぎないとして一蹴してしまうのではないか。今日の世論は、新自由主義・国家主義を肯定する方向に動きつつある。したがって、教育基本法改正論を批判するためには、たんにそれが新自由主義・国家主義に与するものだと指摘するだけではなく、新自由主義・国家主義に与することがいかに誤っているか、いかに今日の教育問題の解決にとって無力であり、さらに有害でさえあるのかを示す必要がある (中村 2004 p. 145)
これってこういう(悪い)考えのもとで行われているものなんだよ!こういうイデオロギーが根底にあるんだよ!といったところで、「それで?それのなにが悪いの?」といわれたらおしまいです。なぜ悪いのか?それを冷静に、論理的に伝えていかなければなりません。
あたりまえのことのようですが、再度、自分に言い聞かせておくべきことだと思いました。